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自己紹介(社会人時代ー17)

 

      本日は、「松下電器を退職し会計事務所を独立開業」した経緯について述べさせて

     頂きます。

    

      丁度勤続20年目の時上司より、アメリカの電子部品会社の経理責任者としての

     転勤の打診をされました。

      家族と話し合い転勤を決意して上司へ報告しようとした矢先に、父が急病で入院する

     ことになりました。

       さて、長男としてどうするか?大変惑いましたが、最終的には松下電器を退職し、

     親元で会計事務所を開業・独立することに決めました。

       ...「男は40歳にして惑わず」という格言がありますが、いろいろな人を見ますと

        私と同じように「男は40歳にして惑う」というのが正しいのではないでしょうか。

 

      平成元年の1月7日に「杉田公認会計士事務所」として看板を掲げました。

     今でもしっかり覚えていますが、その開業した日が丁度21年前の1月7日の本日です。

     年号が昭和から平成に切り替わった日でもあります。

 

      私の父がズーと続けてきた「金物商」も、丁度この時期には全く売れなくなっていまし

     た。それは、主婦の店ダイエーが近辺に出店し、お客がダイエーになだれ込んだから

     です。

       ...現在、量販店が勢いをつけて出店しているため、個人の商店がドンドン廃業して

         いるのと同じ現象です。

       高校生の時、父の商売の後を継ぐのが大変イヤで受験勉強のバネになりましたが、

     結果論的には正しいということになりました。

 

       以上から、私の人生と世の中の流れを鳥瞰いたしますと、1つの事実として、「20年

     毎に流れが大きく変わる」ことを実感しています。読者のご参考になれば幸いです。

      

2010年1月 6日 21:02|その他

自己紹介(社会人時代ー16)

 

       今回は、以前に述べました「会計士試験へのチャレンジ」のその後の経過です。

         その頃を思い出しますと、下記のような受験勉強をしたことが思い出されます。

 

       会社の出勤日の時は、帰宅が深夜となっても、15分でもテキストを読んだり計算

      問題を解いたりと必ず実行しました。不思議なもので、時間が無い分、逆に集中出来

      たと思います。或いは、仕事のストレスを発散させていたかも知れません。

        土曜等の出勤がある時を除いて、ほぼ土日は予備校に通い続けました。

      しかし、本試験を受けると何年も不合格でした。

 

        7~8年このサイクルで受験勉強を続けましたが、とうとう29歳になったときに、

      「もう来年30歳になっても受からなかったら受験勉強を止めて、仕事だけに集中

       しよう」と腹をくくりました。そう心に決めると気合いが入ってきまして、その夏の

      本試験の前日から試験終了までの3日間は徹夜で明日の受験科目のレジメの

      復習を致しました。

       当時の会計士試験の受験場での環境は今と違って、クーラーがない、計算機が

      ない時代でした。それで、半ズボンとランニングシャツで、ハンカチで汗を拭いながら

      一心不乱に書きまくった、計算しまくったことを今でも覚えています。特に試験終了

      間際の最後の一分間は、集中力が最高に高まったときなのか、すごく長く感じまし

      た。試験官が答案を取りに来るのを知らずに声をかけられて初めて気がついた次第

      でした。

       試験問題につきましても、前日に復習した問題そっくりなのが簿記とか原価計算

      で出題されました。神様のお恵みを頂いたのかも知れません。

        会計士の2次試験は、この年に合格致しました。これは、後ろでバックアップして

      くれた家内や家族のお陰です。

 

         2次試験に合格後、3次試験の合格までに6年を費やしました。30代になって

       会社の仕事に熱中した分、時間がかかりました。

         3次の筆記試験の合格後、面接試験を受けるために東京に行きました。無事

        面接を受けた後帰途の新幹線に乗りましたが、その車中で長かった受験

        勉強の14年間が「走馬燈」のように思い出されました。

       

 

2010年1月 4日 19:59|その他

自己紹介(社会人時代ー15)

 

       今回は、松下電器の経理マンとしての私の軌跡を振り返ってみたいと思います。

     以前述べましたように、悪戦苦闘した金銭出納業務を皮切りに、20年間の勤務の

     間に、財務担当・予算担当・主任・係長・課長と仕事の幅を広げることが出来ました。

     この中で、一番楽しかったのが「予算担当」でした。

 

       予算担当とは、工場長や開発部長や営業部長の経営参謀として、事業計画策定

      ・月次決算報告・決算検討会報告などを行う仕事です。

       何故か、新規開発中の赤字の工場の予算担当が長かったものです。特に、ある

      工場長との何年間かが鮮明に思い出されます。生産技術出身の工場長でしたが、

      気性が激しく興奮すると灰皿が飛んできます。今思い出しますと、良い意味で全身

      全霊を込めて新規事業の立ち上げに邁進されていたのだと理解出来ます。

      松下電器が超大企業に成長したのは、責任者を中心に松下幸之助氏のいう「全員

      経営」「全員商店主」を実践したからだと思い出されます。

 

        私の松下電器で勤務したときの最終の事業場は、大変大きな事業部でした。

      関係子会社として、国内3社、海外2社を支配していました。この事業部の経理

      課長として、グループの経理社員約80名を対象に管理と指示を致しました。その

      役割は、事業部長の補佐、ご意見番、参謀、特命事項の推進、関係部門への

      指示等経営経理の実践そのものでした。

 

        全く経理知識の無かった私が、20年間の間で上記のような仕事を担当できた

      のも、松下幸之助氏の基本理念である「物を作る前に人を作る」のお陰であり、

      又先輩の方々の薫陶があったからだと思います。感謝そのものです。 

2009年12月30日 11:51|その他

自己紹介(社会人時代ー14)

 

      今回は、「正が誤りとなり、誤りが正となる時代」をテーマにお話しします。

 

     松下電器に入社後、ズーと「製品別事業部制度」のもと製品毎の損益と資金を把握して

     迅速なアクションをとることが経営の基本方針でした。

      しかし、約10年前、当時の中村社長が事業部制を打破して、全社的な資源の配分を

     見直すと発表されました。

      その理由は、事業部制経営の行きつくところ、エゴが出てきてしまい、同一製品を

     複数の事業部が開発し、全体としては重複投資と資源の分散となってしまうからでした。

      更に、単一製品メーカーに対する競争力が落ちてしまうことも理由の1つであると思わ

     れます。

  

       私も、会計事務所を開設後このようなことを何度も経験いたしました。今は正しいが

      時間の経過とともに、誤りとなる。今は誤りだが、時間が経てば正となる。

       しかも、その変わり身が最近になって早くなってきていると思います。私の感じでは、

      5年サイクルから、2年サイクルへと短くなってきています。

       従いまして、2~5年先の変化を見て、いつ方向が変わるのかを常に探っておく

      必要があります。

       更に、こういう時代は「過去の成功経験」が余り役立たないと思います。常に世の中

      の動きをみて、新規創業の心意気で経営をチェンジさせる強力なリーダーシップが求め

      られています。

       まことに、環境が厳しくなってきているのを実感する今日このごろです。

  

2009年12月26日 16:26|その他

自己紹介(社会人時代-13)

 今回は、松下電器の経理社員教育と経理塾のお話をいたします。

 松下電器には、「経理社員」という登録制度があります。その当時の経理社員は2千人以上だったと記憶しています。

 経理社員を束ね、経理制度を創設し、その運用を高めたのは、元副社長の「高橋荒太郎氏」でした。松下幸之助氏の右腕で懐刀だった人です。

 松下電器の事業部制を支える神経制度としての経理制度は、ある意味で徹底したものでした。経理社員は本社登録とされ、さらに事業部長は、お目付役としての経理責任者をすげ替えようとしても人事権はありませんでした。見事な内部牽制制度です。

 今、国際的に内部統制を強化しようとする動きがありますが、参考になるのではないでしょうか。

 経理社員を育成するため、実務経験度に合わせて育成プログラムが準備されていましたので、それに乗っかっていろいろな研修とか討議とかを行ったものです。

 

 「経理塾」は、松下政経塾を参考にして発足した経理社員研修の1つです。

どうしても経理マンは数字だけで物事を見がちで視野が狭くなりがちです。そこで、経理塾の塾生となり、日本全国の気に入ったところを訪問して物の見方を変えようという趣旨でした。私も、第一期生で楽しませてもらいました。例えば、大分県を訪問し、「村おこし運動」について説明を聞いたあと、平松知事と記念写真を撮るなどと思い出はたくさんあります。

2009年12月21日 13:24|その他

自己紹介(社会人時代―12)

今回は、「経営企画」についてのお話です。

 それまで経理一筋で仕事をこなしてきましたが、30代の半ばに「経営企画室」に移ることになりました。

経理の道一本槍は良い面もあるのですが、どうしても偏った考え方になりがちです。その辺の事も考えて上司が配慮してくれたのかも知れません。

それまでは、部下管理をしながら毎日計算機とにらめっこでしたが、経営企画室に移ると何もすることがありません。時間の過ごし方が分からず、ぎこちない動きになったものです。

周りの人は、トップから指示のある「経営戦略」の策定ですが、今までの職場と比較すると、のんびりしたものです。しかし、そばで話を聞くと大変頭の良い人ばかりというのが分かります。

 私の担当は、「内部監査」を実施したあとトップに報告することでした。人に嫌われる仕事ですが前向きに考えて、今まで経験していない事業場をあっちこっち回ってやろうと思いました。

 関西を中心に、北は北海道から南は広島まで内部監査を積極的に行いました。

また、海外子会社のあるマレーシアやシンガポールも訪れました。

 内部監査をして良かったことは、経営の細部まで理解できたのと「内部監査報告書」をまとめるため論理的な文章力がついたことだと思います。

 反面、「自分にも出来ないことを指摘」しますので、監査された方が良い気持ちがしないことです。

 3年ほど「内部監査」を担当しましたが、これ以上すると人間がおかしくなると思い、上司に頼んで「事業場」に戻してもらいました。

2009年12月 7日 11:07|その他

自己紹介(社会人時代―11)

今回は、「純血主義」のメリットどデメリットについて述べたいと思います。

松下電器に勤務していたときは、「松下の経営基本方針」に基づき、全員の経営に対する考え方は「筋の通った一本」でした。

 全員が同じベクトルで仕事できる良さを身にしみて感じました。

 ...入社した時から全員が刷り込みされているわけですから。

しかし、その問題点もあります。松下電器に途中入社してきた優秀な社員が、入社後、ドンドン成長される人が多いのです。

例えば、以前にも述べました「山下俊彦社長」も途中入社の方です。

 

 これは、途中入社してきた社員は、中小零細企業で資金に悩みながら悪戦苦闘してきた強者が多かったからだと思います。

 超一流企業の純血主義で育った社員は、どうも何かひ弱で欠けているところがあるようです。

 それで、松下電器として途中入社の採用をしていたと思います。

 

私なりの結論ですが、組織というのはいろいろな経験と考え方の違った人がバランス良く混ざった方が却って強いのではと思っています。

2009年11月30日 10:40|その他

自己紹介(社会人時代ー10)

 

     私の今までの記憶の中で、世の中の景気に関する「○○ショック」が2つあります。

    その一つは、昭和40年代後半の「オイルショック」と今回の「リーマンショック」です。

 

     その共通点ですが、「ショックの直前は極めて好景気」でした。特に、「オイルショック」

    の前年は、日本中のサラリーマンの賃金が20~30%ほど上昇したと記憶しています。

     もう一つの共通点は、ショック後の景気は「なだらかな上昇カーブしか描けない」こと

    です。あたかも、病み上がりのあとは往年の活力は出てこないのと似ています。

       ...35年ぐらい前の「オイルショック」についても、その後は往年の爆発的な成長

         は無くなりました。

 

     相違点は、「オイルショック」の時は1年で V字回復下のに比べ、今回の「リーマン

    ショック」は回復に3年程度かかりそうだということです。

      この回復力の差は、やはり「日本の少子化」が原因でないかと思っています。

        ...中国やインドやブラジルは既に景気が回復していることからしても察しがつき

          ます。

 

     「オイルショック」は、松下電器に入社して5年後に起こりました。今まで爆発的に

    成長していたのが急にブレーキがかかった感じがしました。これは、一つの時代の

    区切りだなとあとで気がついた次第です。

2009年11月14日 20:47|その他

自己紹介(社会人時代ー9)

 

       これからしばらくは、松下電器での勤務の中で特に印象深い思い出を綴りたい

      と思っています。

 

       まず、「松下幸之助氏」についてのお話です。入社して間もない頃、我々社員が

      幸之助氏の訓話を受ける機会ががありました。私が座っている真横を通って演台

      に向かわれたのですが、その後ろ姿は「田舎のおじいさん」という印象でした。

       しかし、演台にあがられ話をされるときの「顔」を拝見させて頂きますと、すごく

      内向的で深く深く考えをめぐらしておられるような神経質な印象を受けました。その

      ギャップが今でも忘れられません。

 

       私が幸之助氏について「素晴らしい人」と思っているのは、単なる事業家を通り

      こしたその「スケール」の大きさです。

        例えば、「PHP運動」は終戦直後から考え動いておられたと記憶しています。

       あの終戦の混乱の時期に数十年先をみこしておられた!!!!

        更に、先を見越して新たに「松下政経塾」を興され、この塾の若い卒業生の

       多数が、これからの日本を支えていく国会議員となっています。

 

        人間の生き方として最高の方ではないでしょうか。肉体は死んでも、精神は

       多くの人の魂の中で脈脈と活きているとは!!!!

 

         松下幸之助氏が創業した会社で20年間も勤務できたことを感謝しています。

2009年11月 4日 20:34|その他

自己紹介(社会人時代ー8)

 

      今回は会計周りの「資格試験」への挑戦について述べさせて頂きます。

    松下内部だけでなく、世間にも通ずる資格に挑戦しようと思いました。

    いろいろ調べたのですが、経理周りというと「税理士」と「会計士」が良さそうでした。

    中小企業診断士の資格もあったのですが、松下電器の経理は「経営経理」と言われ

    ていましたので、この資格は余り必要でないと考えました。

 

      税理士と会計士のどちらをも目指そうかとずいぶん悩みました。

    税理士は1科目に集中して何年も勉強して来た人が競う試験なので、私みたいに

    猛烈に仕事のあるサラリーマンには不向きと思いました。

      一方、会計士の方は確か7~8科目を一度に受験するので、少々ミスがあっても

    他の科目でカバー出来るので受かりやすいのではと感じました。また、上場企業に

    勤めているので仕事にも役立つのではと思いました。

 

      それで、会計士試験の受験に取り組みました。受験予備校に土日の講習コース

    に通いました。もちろん、会社での「事業計画策定」や「中間決算、本決算」等の

    業務多忙の時は通えませんでした。

 

      なお、この会計士受験勉強のことは、社内の人に言って無かったと思います。

    今の時代なら堂々と言えたかも知れませんが、その当時はこういうことを言うのは

    タブーでした。

      逆に、誰にも負けないぐらい一生懸命に仕事に取り組んだと思います。それは、

    教科書を覚える無味乾燥な受験勉強よりも、複雑な仕事を理解する方がズーと

    楽しかったからです。

2009年11月 1日 19:13|その他

自己紹介(社会人時代ー7)

 

      実務の無能力さから来る劣等感から立ち上がるため、気合いを入れて仕事に取り

     組み始めました。

     

       まず、ソロバン塾に通いました。小学生が使うような小さな机で股を広げながら

     教わりました。

       ソロバンに慣れたおかげで、今でも頭の中で結構暗算ができます。すばらしい

      副産物です。

 

       更に、残業とか余りうるさくなかった時代ですので、時間を気にせずトコトン仕事

      に打ち込みました。昼の休憩時間も弁当を食べながら字を書いたり、ソロバンを

      はじくことが頻繁にありました。

          ...こういうことを続けていくうちに、周りから「鉄人28号」というあだ名を付けられ

          ました。(あまり、気にしていなかったですが...)

       若い20代にこういう仕事の取り組みができたことに感謝しています。

          ...「鉄は熱いうちに打て」は真理と思います。

 

       当時の松下電器の優秀な上司から言われた言葉ですが、仕事の取り組み方と

      として、あるレベルまで集中して仕事の「量」をこなすと一挙に仕事の「質」(勘も

      含む)がアップすると教わったことがあります。

        私はこの言葉は名言と今でも思っています。おそらく、頭の中で潜在意識が

       貯まってくると一挙に「ひらめき」として「口と行動」に出て来るのではないで

       しょうか。

 

        次回は、会計周りの資格試験への挑戦について述べさせて頂きます。

      

2009年10月24日 18:29|その他

自己紹介(社会人時代ー6)

 

       しばらく横道にそれていましたが、本題に戻ります。

      回路部品事業部の経理課に配属されて最初の経理業務は、金銭出納でした。

 

       金銭出納を担当したての頃は、失敗の連続でした。例えば、

      事前に少しばかり仕訳の勉強はしましたが、事業部独特の複雑な仕訳が良く

      分かりません。2つほど年下の経験者からいろいろ教わりましたが、その人は

      優秀で「素晴らしい能力」の持ち主と思いました。実際その頃、松下電器に入社

      する人は高卒も大卒も優秀な人が多かったと思います。

      しかし、自分は全くのよちよち歩きです。初めての痛烈な劣等感を感じました。

 

       現金出納もその日の金庫残高と帳簿残高が合いません。夜の遅くまでの照合

      でやっと合いました。それがしょっちゅうでした。50歳ぐらいの大奥の様な女性の

      上司から「何でいっぺんであわへんのや!!」と叱られます。

      普通の人は入社したら金銭出納をほぼ1年ぐらいで終了するのですが、私の場合

      は2年近く金銭出納で鍛えられたと思います。

 

       ところが世の中面白いもので、この木っ端微塵の劣等感が私の心の中に「火」

      をつけました。今のままでは、世の中で「埋もれてしまう」という危機感と「がんばら

      なあかん」という持って生まれた負けじ魂です。

         ...この続きは、次回でということで。

2009年10月21日 21:26|その他

自己紹介(社会人時代ー5)

 

       今回は、電子部品業界が置かれている経営環境について私見を述べさせて

      頂きます。

 

       お客さんは主に電気機器メーカーで、常に値下げ要望があります。年に2回コスト

      ダウンを要請されそれに比例して値下げを強制するメーカーもありました。そんなに

      値下げばかりしていたら、最後はゼロ円になるのではと思うこともありました。

 

       さらに、部品業界は「景気」の影響を受けやすい業界で不景気になると途端に

      受注が大幅ダウンします。そうなると、素早く生産調整をしないと、不移動の在庫

      の山ができあがります。

 

       汎用品は概して「見込み生産」ですが、技術的には高度な部品は「受注生産」

      になります。技術的に高度な部品は「開発力と生産技術力」が無いと受注の獲得が

      できません。受注後は、コストダウンのための「大きな投資」を伴います。それも、

      「値下げ」と「コストダウン」との時間競争です。値下げよりもコストダウンが早ければ

      継続して黒字基調となりますが、遅ければ継続して赤字基調となります。

      

       また、同業他社との受注競争も激烈です。固定費の小さい部品メーカーは、売値を

      ドンドン下げて必死に受注対応します。また、ある一品に特化している部品メーカー

      は、その製品については他の追随を許しません。 

 

       以上の様に、電子部品業界は「いじめられやすい」業界ですが、逆に踏まれても

      踏まれても立ち上がるたくましい雑草の様な業界です。そこで生きている人たちも

      目立たないが「我慢強くて芯の強い人」が大半です。この電子部品業界で鍛えられ

      たことに、今感謝しています。

 

 

 

2009年10月17日 15:03|その他

自己紹介(社会人時代ー4)

 

      私が入社した頃の職場環境を思い出せる範囲内で書いてみました。

    昭和40年代の前半から半ばの間に、土曜出勤が無くなったそうです。松下電器は、

    世間に先駆けて率先していち早く実施したそうです。私の入社の時は既に週休2日

    制になっていました。

      ...人の話によりますと、土曜出勤は効率が悪かったそうです。昼の12:00になり

        ますとそれで仕事が終了ですから。

 

     また、職場にクーラーが設置されてそれほど期間が無かったようです。それまでは

    夏の暑い日などは、屋根に登って「水」をかけて冷やし職場の温度を下げたそうです。

    私の入社の時は、既にクーラーが設置されていました。

 

     経理部門の計算は「算盤」(ソロバン)でした。電卓は全くありませんでした。電卓

    が職場に置かれたのは、入社してから確か数年を経てからです。その初めての電卓

    は、極めて高額でまた大きくて今のデスクトップパソコンの1.5倍ほどあったと思い

    ます。それでも、我々経理マンはその便利さに大喜びでした。

 

      今の立場で考えますと、大変な環境で仕事をしていたわけですが、人間って

    柔軟性があってそれはそれで仕事をこなせたわけです。技術の日新月歩は素晴ら

    しいことを身をもって経験しました。

 

2009年10月13日 17:09|その他

自己紹介(社会人時代ー3)

 

      販売・製造実習を終えた後、私は電子部品の「回路部品事業部」の経理課に

     配属されました。経理部門への配属は希望通りでした。

        ...経理部門を希望したのは下記の理由からです。

          ①私の性格は「営業」には向いていないと思っていました。

          ②入社前に市販の本で松下電器の概要を調べたとき「事業部制を

           支える神経細胞としての松下経理」についての記事を読み、これは

           面白いなと感じていました。

 

      ところで、最初に辞令をもらったとき「カイロ」と聞きましたので、これはてっきり

     お腹とかを暖める「カイロ」と思いこんでしまいました。ああ、あのカイロの商品を

     作る事業部だなと想像しました。

      ところがよく聞くと、電子部品の「抵抗器」とかを作る事業部だったのです。それ

     までは、松下電器は完成商品の組み立て製造が中心と思いこんでいました。

        ...ご参考に説明致しますと、抵抗器1個は1円にも満たない部品ですが

         蛍光灯とかあらゆる電器製品に使われています。

      そのとき初めて、松下電器は「物作りの川上から川下までを創る総合電器

     メーカー」であることを知った次第です。

 

  

2009年10月10日 17:30|その他

自己紹介(社会人時代ー2)

 

      導入教育を終了した後、販売店実習と製造実習がありました。各々についてその

     簡単な思い出を述べさせて頂きます。

 

      販売店実習の狙いは、商品を売ることがどれぐらいパワーとコストと熱意が必要

     なのかを若いうちから体で体得させることであったと思います。でも、未だ自分自身

     が若かったのと時代がよく売れる時代だったので、余り体得できなかったと感じて

     います。

      それよりも、実習の終了間際にナショナルショップ店の社長から天井の掃除を

     指示され、髪の毛からズボンまで真っ黒けになって頑張って綺麗に掃除できたこと

     が一番印象に残っています。

 

      製造実習は「クーラー事業部」でした。コンベアラインに載ってくるクーラーの外観

     検査等を担当したと思います。メーカーは、「物作り」が経営の基本であり、QCD

     (品質、コスト、納期)の管理をしっかりしておくことの重要性を表面的にも理解でき

     ました。

       ...当時は、クーラーが世の中にドンドン普及し需要が急速に伸びた時代でした。

      それよりも、印象に残ったことが一つあります。それは、当時の「事業部長の行動」

     です。夕方、製造ラインが止まり、照明灯も消され、常夜灯だけの製造現場で事業

     部長が一人だけ残られ、生産ラインや製造設備をじっくり観察されていたことです。

       「事業部長は、えらいなー」とそのとき思いました。

 

      この時から10年も経たないうちに、松下電器の社長が松下幸之助氏から山下俊

     彦氏に交代されたとの新聞記事が載りました。世間一般では「山下飛び」とか言わ

     れたものです。

     その新社長の新聞の顔写真を見て、ビックリしました。なんと、その山下俊彦氏が、

     製造実習時代のクーラー事業部の事業部長だったのです。

       ...大企業のトップになるような人は、山下俊彦氏の様な人だなと実感致しました。

 

 

 

      

2009年10月 8日 21:46|その他

自己紹介(社会人時代ー1)

 

       昭和44年の4月から、松下電器産業(株)(現パナソニック)に入社しました。

      両親は、松下電器で鍛えられるということで大喜びでした。

      そのときの初任給は、確か2~3万円ぐらいでしたが、これでも貯金ができる時代

      でした。

 

       入社式は枚方の体育館で行われましたが、同期の大卒者は私の記憶では

      800人ぐらいでした。その数の多さに最初から気後れしたものです。

       入社式のあと、確か2週間ぐらいの「新入社員導入研修」が行われました。

      愛情溢れた(?)鬼軍曹のような教育責任者の方が朝早くから我々新入社員に

      いろいろ指導をされたものです。

       その導入研修の講義で、今でも覚えているのは次の項目です。

         ①松下幸之助社長の理念である水道哲学と経営基本方針

         ②企業は社会の公器にならねばならない

         ③事業部制と経理制度による効率的な経営管理の推進

         ④適正利益をあげることによる税金等で社会に還元

 

      私は、以前述べましたように、商売人の家に生まれたので「適正利益」はスーと

     素直に理解できましたが、新入社員の中にはなかなか理解できずしばらくして去って

     行った人がおりました。

      

 

 

 

 

2009年10月 5日 14:07|その他

自己紹介(大学時代ー9)

 

      就職先も決まって気持ちよく昭和44年の新年を迎えると、途端に大学卒業が

     間近になってきました。早いものです。

      これにあわせて、全学連によるベトナム戦争反対等の学生運動も激しくなって

     来ました。今の時代では信じられないような「火炎瓶」とかが大学構内に投げ込

     まれたり「籠城」する動きが全国的に広まっていきました。

      これでは卒業試験も受けられないので、確か殆どの試験が「レポート提出」に

     切り替わりました。私としては、この点ラッキーでした。

      更には卒業式も危険ということで無くなってしまいましたが、今でも卒業式が無

     かったのが悔やまれます。

      

2009年10月 1日 16:59|その他

自己紹介(大学時代ー8)

 

       いよいよ4回生ということで、就職活動を開始しました。

      昭和43年といいますと、丁度日本経済の「高度成長」がドンドン加速し出した

      頃のことです。就職についてはそれほど心配しなくても良い時代でした。

 

       私は、就職希望先をある都市銀行と松下電器(現パナソニック)の2つに絞り

      ました。まず都市銀行の内定をもらったのですが、、物を作らないサービス業は

      どうも肌に合わないのと全国への転勤が気になりました。それは長男として親

      の面倒を見る必要があるとうっすら気がついていたからです。それで、その都市

      銀行は入社を辞退しました。

 

       次に松下幸之助で有名で大阪に本社がある松下電器の面接を受けました。

      今でもその時のことを鮮明に覚えています。

       面接担当の役員の方が大きな体で椅子に狭しと座って居られました。よろしく

      お願いしますと挨拶した後着席して目を合わせますと「仁王様」の様な怖い顔つき

      で「何で松下電器を希望するのか?}と厳しく問い詰められました。

         ...今でも寺院の仁王様を見ますと、反射神経的にそのときのことを思い出し

           てしまいます。

       今まで学生でノホホンと過ごしてきたので、その厳しい問いつめに一瞬頭が

      パニックになってしまいました。そのとき、どう言い返したのか覚えていません。

       松下電器の就職は不可だなとあきらめていたとき、会社から「内定」の連絡を

      頂きました。

 

        今から自分の人生を振り返って見ますと、銀行に就職しなくて良かったと

      ホットしています。その都市銀行の名前は現在ありませんし、その都市銀行が

      今どの都市銀行の一部になっているかも分かりません。

       そういう意味で、就職って人生を大きく変える岐路だなと実感しています。

2009年9月27日 17:32|その他

自己紹介(大学時代ー7)

 

        ゼミは、「経営学」専攻で故田杉競教授のゼミナールに入りました。田杉先生の

       苗字は私の苗字を逆さにした形なので、何かご縁が会ったのかも知れません。

       田杉先生の研究テーマは「人間関係論」でした。特に、「ホーソン実験の研究」で

       有名でした。人間の「ヤル気」(意欲、モチベーション)の源泉を理論的に解明され

       て多くの論文を書かれていました。

      

          田杉先生は、理論と併せてそれを実践する先生でした。その穏和な性格と

        多趣味であらゆる業界に顔が広く、会った人との「人間関係」の素晴らしい人

        でした。

           ...ゼミ生は、幾度となく会社見学に連れて行ってもらいました。

        良い先生に出会えて今でも感謝しています。

 

2009年9月23日 16:36|その他

自己紹介(大学時代ー6)

 

       2年間の教養課程を経て3回生より専門課程に入りました。その時、それまで

      勉強してきた「マルクス経済学」を選択するか、社会人になってから役立ちそうな

      「近代経済学」を専攻するか少し悩みましたが、最終的に「近代経済学」を選択

      しました。

   

         ...マルクス経済学が経済の根本理念を研究するのに対して、近代経済学

           は経済の技術論の研究という意味で全く肌合いが違います。

         ...「近代経済学」を選択したのは、私はもともと商売人の家に生まれ育った

           ので「私有財産制」を前提とする近代経済学の方が納得できたからです。

         ...しかし、正反対の2つの理論を曲がりなりにも触れられたのは自分にとっ

           幸いでした。

           それは、「資本家」と「労働者」の関係は過去も現在も将来も永遠の課題

           であり、両者の考え方の違いの概要を理解できたからです。

        

2009年9月21日 11:28|その他

自己紹介(大学時代ー5)

 

       私の大学生時代は、日米安保条約改定反対に続いて発生したベトナム戦争

      反対の大学紛争が真っ盛りの時でした。正門近くには、反対のバリケードが

      貼り巡らされていました。

 

        京大経済学部はマルクス経済学が主流でしたので、我々学生は純粋に

      「資本と労働」についてまじめな討論をしたことが思い出されます。

        私も仲間と「資本論研究会」に入り、カール・マルクスの難解な「資本論」

       を一生懸命に理解しようと読み合いしたことが懐かしく思い出されます。

         ...資本論を読んでいきますと、カール・マルクスがすばらしい頭脳である

           ことが分かります。

          長谷部氏の日本語訳が上手(うまく)ない(?)のか、主語と述語と修飾語が

          何処に掛かっていって結果として一つの文章で何が言いたいのかをメンバー

          で討議しながら進めていきました。

        ...メンバーのなかで、一番根気があり徹底して読み込んで研究熱心な学生は、

          現在東京大学の教授になっています。私には、真似のできない勉強ぶり

          でした。

 

       

 

      

 

   

 

2009年9月18日 17:24|その他

自己紹介(大学時代ー4)

 

        前回は語学力のお話をいたしましので、その延長線上のお話で学生の時

       の具体例を述べさせて頂きます。

 

        大学時代の教養課程で同じクラスに在籍していたある学生のお話です。

       京大生に似ずアカ抜けしてハイカラな学生で、早いうちからゴルフをしていましたが

       大学3年の時に経済学部から法学部に転部しました。その時、私は「なんで?」

       と思っただけでした。

 

        それから2年して卒業生の就職先のリストを見ると、なんと「外務省の上級試験」

       に合格しているではありませんか!!!

       それまでは、全くそういうのと正反対の行動と雰囲気でした。

 

       それから35年ほど経た数年前、その人は外務省役人のトップに近い立場で特に

      東南アジア関連の新聞記事で時の話題をさらった人になっていました。

 

       今から思い起こしますと、その人は学生の時にチャンと将来の目標を定め、人

      知れず語学・会話・ゴルフ等の徹底した修業を実践したからではないでしょうか。

      今やっと、「たいした人物」だとようやく分かった次第です。

 

        

2009年9月12日 16:51|その他

自己紹介(大学時代ー3)

 

       大変ゆとりのある大學時代を思い出して今反省することは、会話も含めもっと

      語学を身につけるまで勉強すべきであったと思います。

       私は英語と独語を専攻致しましが今はほとんど活用できていません。

      英語の勉強にかけた時間の割には仕事面等の成果が出ていないのは、日本人

      の特質ではないでしょうか。

 

       1つは日本人特有のはにかみ性格があると思いますが、これからの若い人は

      もっと外人の中に飛び込んで交流を図るべきと思います。

        学生の海外留学が流行っているのは良いことだと思いますが、留学期間が

      短くて体に身に付くまでは至らないのが現実ではないでしょうか。

 

        留学期間中は、語学の上達と海外人脈のターゲットを決めて毎日の行動

      計画を立てて実行する位のことが必要かも知れません。ご参考下さい。

 

 

2009年9月10日 14:01|その他

自己紹介(大学時代ー2)

 

      高校時代には出来なかったスポーツをしようと衝動的にかっこよい「剣道部」

     に一年近く入部していたことがあります。

 

       しかし、私は汗かきで剣道具をかぶっていますと目に汗が入り痛くて仕方

     が入りません。もう一つは体型が胴長短足のため、一歩踏み出す前に相手は

     30cm程先に進んでいます。

 

       そんなこんなで、剣道は長続きしませんでした。なんでも、思いつきでことを

     進めることは失敗する物ですね。

2009年9月 6日 18:13|その他

自己紹介(大学時代ー1)

 

     あこがれの京都大学に入学後、受験の疲れからかしばらくボーとしてしまい

    ました。高校までは「成績点数が全て」の感覚で周りの人もそれで評価してい

    ましたが、大学に入学すると全くそういうことがありません。

 

      何を目標にして良いのか分かりませんでした。入学してくる学生も大半の

    ものは、同じであったと思います。

 

      やっと自分を取り戻した感じで岩波新書や新潮文庫などの文学作品を読み

    耽りました。この頃の青春時代の学生の誰もが通る道かも知れません。

       ...今でも印象に残るのは、その頃よく読まれた「敦煌」「三太郎の日記」

         「風林火山」「我が輩は猫である」等々あげればきりがありません。

       ...しかし、社会人になってからはビジネス書に一転してしまいました。

         もう少し時間の余裕が出来たら、昔に戻って文学書を読みたいな

         と思う今日この頃です。

   

2009年8月31日 20:44|その他

コーヒータイム

 

      エンディングノート「書き方セミナー」を開催致します。

 

       自分に万一のことが起こった場合、家族が困らないように自らの意思や

       "生きてきた道"を伝えるためのエンディングノート。あなたも書き記して

       おきませんか。ふるってご参加下さい。

         ~私の歩いた道、そしてこれから歩く道、家族への愛のメッセージ~

        

          開催日時    9月26日(土)午後2時~3時半

          開催場所    京都JA会館

          講  師     杉田徳行

          参加 料     無料(エンディングノートを贈呈)

          申込方法    TEL 075-641-5705

                    FAX 075-647-2657

                   

          

 

 

 

 

 

     

     

2009年8月27日 14:45|その他

自己紹介(高校時代ー9)

 

    長くプログの夏休みを頂きました。

    横道にそれましたが本題に戻ります。

 

     高校3年生の時は受験一色でした。あのときほど、或る一点に集中して物事に

    取り組めたのはその後の人生ではありませんでした。今思い出しますと貴重な

    経験でした。

     その頃は夜の11:00~から確か「ヤングリクエスト」とかのラジオ番組があり

    ました。それを聞きながら、「ながら勉強」をしました。

     また、大学受験予備校の夏期講習で「生物」の講義がすばらしくよく理解でき

    ました。また秋には「模擬試験」を受けに行きました。

      その結果、どうにか現役で京都大学の経済学部に合格することが出来ました。

    黙って見守ってくれた家族に感謝しています。

    

2009年8月23日 13:18|その他

自己紹介(高校時代ー8)

 

        今回は、前回の続きということで、現在の日本の状況とその対策(?)を

       独断と偏見で述べさせて頂きます。

        私は、「少子高齢化」に伴い平成13~14年以降から日本の経済の衰退が

       始まりだしたと思います。

        そして、昨年のリーマンショックで決定的なダメージを受けたのではないか

       と感じています。

        丁度、63年前の敗戦に近い状態ー経済的敗戦ーではないでしょうか?

           ...地方だけでなく都会においてもシャッター通りがドンドン増えている

             のはその象徴ではないでしょうか?

 

        我々は、「夢と希望」を何処に持つべきか思案に暮れて茫然としているの

       はないでしょうか?

        そこで、その解決すべき対策として、個人的にも企業的にも「華僑」では無く

       「日僑」~日本をベースに海外との関わり合いを積極的に進めていく~を目指

       した社会的な仕組みを構築したら良いのではと感じます。具体的には、次の

       様な施策が考えられます。

 

        1つは、「日本語、英語、中国語等3カ国語を自由に使いこなせる国際的な

       日本人をドンドン育成」すべきと思います。これは、海外との人脈を増やす為

       です。日本の発展には、東南アジアを中心として海外に活路を見いだすこと

       が必要と思います。

          ...その為には、幼児の時から諸外国に慣れ親しむ社会的な風土の構築

           が大切です。

 

        2つは、島国から来る日本人特有の「内向き性格」を「外向き性格」に意識

       的に改造する教育システムが必要と思います。例えば、小学校時代から

       「ディベート(討論)教育」の教育を始めるなどです。

          ...英国では、既に行われています。

2009年8月 4日 12:40|その他

自己紹介(高校時代ー7)

 

       私が桃山高校に在学していたのは、今から40数年前の昭和30年代の

      後半です。

       確か新幹線が動き出し東京オリンピックが開催された頃です。これにあわ

      せてカラーテレビが売り出され始めたので、電器屋さんの街頭テレビを必死

      で見ていました。

          ...丁度今の中国と同様と思いますが少し違うところがあります。

            それは、日本の場合政府の「所得倍増計画」に基づき、国民皆が

            「中流階級」に向かったことです。

     

       我々は、その中流階級になろうと「夢と希望」をもって一生懸命に努力しま

       した。

        この頃が終戦後日本が敗戦から立ち上がり前を見て「将来の夢と希望」に

       向かって~それは単純にカー、カラーテレビ、クーラー、冷蔵庫、洗濯機等を

       を自分の所有としたいということだったかも知れませんが~邁進して行き始め

       るエポックの時だったと今実感しています。

 

 

    

2009年8月 1日 17:03|その他

自己紹介(高校時代ー6)

 

         公立高校に入学して感じたことは、「いろいろな考え方」を持っている先生

        や高校生に出会ったことです。

         高校を卒業したら、直ぐに北海道の牧場に就職して将来は大きな牧場主

        になる夢を持っていた人もいました。

         桃山高校はボートで有名でしたので、高校の3年間をボート部に所属し

        青春をボートで謳歌した人もいました。

         また、先生の中にも司法試験を目指し合格され転職された方もいました。

        人間は自分に適合した「何か」を掴んだら、夢中になれる生き物と思います。

 

         

2009年7月26日 17:11|その他

自己紹介(高校時代ー5)

 

        それでは、高校時代を思い出して幾つか印象に残っている事をしばらく述べ

       させて頂きます。

 

        まず、今回は「制服」についてです。当時、男子は詰め襟付きの黒の学生服

       に統一されていました。運動をした後など「蒸し風呂」状態になる欠点はありま

       したが、それ以上に「形式が内面を規制する」というメリットがあったと思いま

               す。分かりやすく言いますと、自分は未だ「学生」で学ぶのが本分というのを

               気づかせてくれたと思います。

         ...現代の高校生はその辺がある意味で、希薄になっている感じがします。

           私の勘違いかも知れませんが~

2009年7月22日 20:53|その他

自己紹介(高校時代ー4)

 

       夏休みは受験仲間と桃山高校の校舎で一緒に勉強した記憶があります。

      自宅の伏見稲荷から桃山高校のある丹波橋まで下駄を履いて自転車にのり、

      校舎まで地面に足をつけないで到着するのが日課でした。

      校舎は丘の上にあり大変汗だくで厳しかったことを思い出します。

 

       当時の桃山高校は、確かクーラーが無かったと思います。

      廊下の窓を開けて風通しを良くした後、廊下に机を出して受験勉強をしました。

      一点集中で専念し、大変楽しかったものです。

2009年7月21日 17:04|その他

自己紹介(高校時代ー3)

 

     受験仲間もでき、高校時代は「雑念無し」「一点集中」出来る良い環境に恵ま

     れました。

      親も黙って見守ってくれました。ただ、桃山高校入学当初に父から一言次の

     様に言われたのが思い出されます。

        ...姉達は皆嫁入りする。お前は長男で男一人だから、浪人するぐらいなら

          大学入学を止めて商売(金物の個人商店)を引き継ぐこと。」

      この言葉で「火」がつきました。これは、「背水の陣で現役での大学入試に受

     からんと!!!」大変なことになると。

        ...当時は、親のやっている商売を継いでその仕事を一生するなんて、考え

          ただけでも「ゾー」とすることでした。

2009年7月19日 13:06|その他

自己紹介(高校時代ー2)

 

     入学当初は久しぶりの共学で戸惑いましたが、直ぐに慣れました。

    高校時代は「国立大学に合格するという目標」を実現する為に頑張ると自分に

    決めていましたので、勉学一筋に邁進しました。

     中学時代と同様に確か木造の校舎だったと思います。その古びた壁に中間

    試験とか期末試験とかの結果を成績順に張り出された記憶があります。

      ...今の公立高校では、こういうことはされていないのでは?

       300万人近くの出生率の時代のなせる技かも。

2009年7月17日 17:27|その他

自己紹介(高校時代ー1)

 

      中学3年の時は確か旺文社の「公立高校入試問題集」に首っ丈で受験勉強

     しました。誰も競争相手がない中で少し不安でしたが、どうにか公立高校に

     合格することが出来ました。

 

      その当時、、京都府の教育委員会は入学する高校を指定していました。

     それまでの学区制からすると「伏見高校」(現在のラグビーで有名な伏見

     工業高校)と思っていました。しかしふたを開けてみると、「桃山高校」に

     入学しなさいとの連絡が入りました。

 

      桃山高校は豊臣秀吉が建立した「伏見桃山城」や明治天皇のお墓の

     ある「桃山御陵」の直ぐ側の大変環境の良い台地の上にありました。

      昔は女子の師範学校だったそうですが、その後府立高校に変更された

      そうです。

 

      

2009年7月12日 20:52|その他

自己紹介(中学校時代ー7)

 

      中学校の3年生になった時、私はそのまま推薦で同志社香里高校に進学

     するか、京都の公立高校を受験して国立大学を目指すかで少し悩みましたが

     最終公立高校を受験することを決めました。

      後から考えると自分の持って生まれた遺伝で、常に何かにチャレンジしたが

     る性格だからと思われます。

      もう一つは両親とも明治生まれで学歴が無く、子供に夢を託したのかも知れ

     ません。

       ~勉強せよととやかく言われたことは一度もありませんでした。

       ~もっとも、受験の経験が無かったからかも知れません。

     このプログの読者の方で10代の子供さんがおられたら~今の時代は難しい

     かも知れませんが~子供を信頼して何も「勉強せよ」とか言わないで黙って

     信頼しておいた方が子供さんが伸びると思います。ご参考下さい。

 

   

     

2009年7月 8日 09:27|その他

自己紹介(中学時代ー6)

 

       大学卒業後、パナソニックに就職が決まりました。約20年間京阪の

     伏見稲荷駅から大阪の門真まで通勤列車で通っていました。

       同志社香里中学は「香里園駅」の近くにあるため、その気になれば

      何時でも母校に行くことが可能でしたが忙しくて一度も訪れたことが

      ありませんでした。

       その後会計事務所を開設して15年ほど経った数年前に同窓会誌が

      届いたとき、「同志社香里大同総会祭」~若手の有名歌手のライブ

      コンサート付き~のパンフレットが同封されていました。それを見て、

      40年ぶりに一度訪問して見学したい気持ちになりました。

        当日母校の玄関前に立ったとき、「場所」を間違えたのかなと周囲を

      キョロキョロ見回しました。女子生徒がなんでいるのかな?もっと古びた

      木造の校舎を見に来たのに、壮大で立派な建物ばかりです!!

         ...まるで「浦島太郎」の様な精神状態でした。

        一瞬動揺しました。不安の中、直ぐに場所に間違いないか少し周囲を

      歩いていきました。すると、「小さい池」がありました。この池を見たとき、

      中学時代のイメージと鮮明に一致したのです。一つでも「面影」があって

      良かったとその時ホットしました。

         ...よく考えれば、中学時代から40年も経っているのですから。

        このような気分は、久しぶりに母校を訪問した人は同じように感じる

       のではないでしょうか?

        その日はライブを楽しんだり、おでんを食べたりしてゆっくりくつろがせて

       頂きました。

 

 

 

 

2009年7月 5日 10:20|その他

自己紹介(中学校時代ー5)

    

      私は中学校・高校ともオンボロの木造校舎で授業を受けました。

    現在は都会ではどこでも小学校から大学まで立派で豪華なコンクリートの校舎

    や体育館等を装備していますが半世紀前は都会でも木造が多かったと思います。

      その切れ目に生まれたのか、私が中学を卒業するととたんに新校舎が建て

    られ、続いて高校でも卒業すると直ぐに新校舎が建てられました。それが今でも

    残念やなと言う気持ちがあります。

       ...たいてい親は校舎建設の寄付をしていたと思いますが~

    こうして経済が発展するにつれ、その「生活コスト」が上がっていくのだなと最近

    実感として気づいています。

       ...当たり前のことですが、少子高齢化時代に入りその見直しが必要なとき

         になっているかも知れません。

    

 

 

 

 

2009年7月 2日 09:47|その他

自己紹介(中学校時代ー4)

 

     中学校時代の思い出で、今でも記憶に残っていることを2~3述べてみます。

     まず、今回は「礼拝と賛美歌」についてです。

     確か月1回か週1回「礼拝」の時間がありました。宗教担当の牧師の先生が

     聖書に書いてあるたとえ話について説明と訓話をされるのが日課でした。

      その時の私は、未だ人生経験がないこともあって、耳の右から左に筒抜けに

     なっていました。訓話のあと、牧師が「アーメン」と言われた後、時には我々

     生徒は悪ふざけの小さな声で「ソーメン、ヒヤソーメン」と締め切った記憶が

     あります。

      私は個人的には「聖書」よりも「賛美歌」の方が気に入っていました。大きな

     パイプオルガンの音色をバックに賛美歌を歌うと何か心が洗われる感じがしま

           した。

 

 

 

2009年6月30日 09:54|その他

自己紹介(中学校時代ー3)

 私自身は、中学校に入学するまでは今の小学生のような猛烈な勉強をしていませんでした。

   ...数年前、塾をしていましたのでその様子が良くわかります。

 

 しかし中学校に入ると、確か中間試験とか期末試験とかいう名前の定期試験を受けることになっていました。

 しかもその当時は、その試験結果を成績順に壁に張り出されて公表されました。

 

どうもこのように追いつめられると、負けじ魂が生まれつきあるのか、頑張なあかんなと試験前 に一生懸命勉強した記憶があります。

 

 

 

 

2009年6月26日 09:00|その他

自己紹介(中学校時代ー2)

 

    その当時の同志社香里中学校は、男子生徒のみでした。みんなやんちゃ盛りで

   よく些細なことでケンカしておでこに「でんぼ(こぶ)」などを作っていました。

   しかし、怖い先生がうまく要所で押さえ込んでいたことを思い出します。

    勉学面では、やはり「英語」をしっかり教えてもらいましたので、後々の受験勉強で

   役立ちました。

     ...しかし、英会話は不得手でした。蕩々と英会話の出来る先輩がおりましたが、

      「天才」で生まれつきの遺伝と思ったものです。

 

2009年6月24日 10:00|その他

自己紹介(中学校時代ー1)

中学校時代は公立中学でなく同志社香里中学校に進学しました。京阪電車の香里園駅から歩いて確か20分ぐらいのところにありました。

 昭和30年代の前半の時代でしたので、中学校へ通う道のりは田園風景そのものでした。

 ...田んぼやあぜ道を歩く道すがら、カエルのグァグァという鳴き声や
 ...セミのミーンという鳴き声が今でも思い出します。
 ...はしゃいで「こえたんご(のつぼ)」に飛び込んでしまった生徒もおりました。

 この付近今コンクリート等に囲まれた住宅街になっていますので、昔の面影は見あたりません。



2009年6月23日 16:18|その他

自己紹介(小学校時代2-5)

それでは、出生率と出生数を引き上げる具体的施策について、私の独断と偏見の考え方を述べさせていただきます。

 

1)施策1(ハード面)

 出産された子供の数に基づき、お国からの給付金が増加するようなインセンティブが必要

 と思われます。

 ...わかりやすく言いますと、現在中国で施行されている「1人っ子政策」の逆を行うべき

ではと考えます。

 

2)施策2(ソフト面)

次に、生まれた子供をいかに素直ですくすくと育てるシステムを構築するかが重要に思います。 

大学を卒業して40年も経ちますと、今、学生たちは何を学んでいるのか私には分かりませんが、憶測では「家庭のあり方、親と子供の良き関係、嫁と姑のあり方」等はほとんど学ばずに卒業しているのでは・・と思います。 

それで、例えば全国の社会福祉協議会で行われている「母親教室」や「健康健やか学級」等をもっと強力な組織に作り上げ「母親の人材育成」を実現すればいいのでは・・と思います。

併せて、「父親教室」等も必要と思われます。

 

偏った意見と自覚していますが、今の人の心に漂う「閉塞感」を打破し、将来に「夢」を抱く社会の仕組みの開発が今まさに必要な時だと思ったのです。 

  次回は、私の「中学校時代」に話を転じます。

 

2009年6月10日 15:23|その他

自己紹介(小学校時代 2-4)

重ねて少し脱線することになりますが、私自身の「小学校時代を振り返る視点」で現在の日本の課題等を私なりに分析(?)していきたいと思います。

 

 まず、以前にも述べましたように「少子高齢化」がドンドン進んでいます。

聞くところによりますと、このままの出生率では2050年には人口が8千万人、2100年には4000万人、200年後にはたった800万人になるそうです。

現在は、しゃべれる高齢者が「介護が問題!介護が問題!」と騒ぐので、人・物・金が高齢者の方に集中していますが、私はどちらかというと「少子化」の方がきわめて大きな問題と認識しています。

赤ん坊や児童は全く叫べないので、声が小さくなり、大きな問題が隠れてしまっていると思われます。

 

 第2次世界大戦以前は、「産めよ、増やせよ」という国家の大号令により、一家族で5人位の出生は当たり前だったと思います。

この傾向は終戦直後のベビーブームに続いています。

これが10年から20年後、若者の人口増であらゆる産業が伸長する根本の要因となっています。

 

 児童たちも5人もきょうだいがいますと、その間で「生存競争」が生まれ、切磋琢磨できたと思われます。

 

 結論として、われわれ国民の間で「出生数を引き上げないと我が国が大変なことになる」という危機感が極めて不足していると感じています。

 

 次回は、その施策について所感を述べさせて頂きます。

 

 

 

 

2009年6月 8日 13:17|その他

自己紹介(小学校時代 2-3)

前回の最後に『次回、私の子供の頃を思い出して「現在の子供たちの環境」について気がついたことを述べたいと思います。』と予告いたしました。

そんな時にふと思い出しました。

 

最近NHKのテレビ番組を観ていますと、東京のある都市が「里川」作りを完成し、地域住民・・特に小さな子供達・・が大感激している場面にたまたま出くわしました。

もともとコンクリートで囲まれた「どぶ川」の水路を変更して「里川」に改良したそうです。

このことにより、

  (1)公共工事で建設業者が潤う。

  (2)もともとあった自然の環境が回復する。

  (3)都会の子供たちに田舎での自然に囲まれた遊び場を提供できる。

という winwin(共存共栄)の関係になると思われます。

 

(補足)水がきれいになると魚が繁殖するそうです。魚が繁殖するとプランクトンを食べるため、川や小石の汚れをクリーンにするそうです(→善循環)

 

 

2009年6月 5日 10:57|その他

自己紹介(小学校時代 2−2)

小学校時代で記憶に残っていることの続きです。

 (3)夏休みに母の実家によく遊びに行ったものです。

親戚の子供たちと小川で魚やザリガニ捕り、葡萄採り、夜のカブトムシ捕り、花火などをして無我夢中で楽しんだことを思い浮かびます。

  ...現在と比較してその頃は「自然」に溢れていたと思います。

  ...6年間、塾などに通わず遊んでいました。

 

 (4)その頃の小学校の先生は、常に背広を着て威厳があるように思いました。

  ...現在と比較しての良し悪しはあるとおもいますが。

 

次回、私の子供の頃を思い出して「現在の子供たちの環境」について気がついたことを述べたいと思います。

 

2009年6月 3日 13:16|その他

自己紹介(小学校時代 2−1)

私の小学校時代は、昭和20年代の後半から30年代の前半です。

終戦からようやく立ち直りだした頃です。

 

その時代で今なお記憶に残っていることを3つ4つ述べさせていただきます。

(1)私どもの遊び場所は「本町通り」でした。そこで子供たち同士で「隠れん坊」をよくやったことです。近くの路地に隠れてドキドキしたことを思い出します。当時は「牛」が荷車を押していた時代ですので、車のことはあまり考えなくて済んだのです。

(2)深草の「練兵場」の跡に、アメリカの「駐留軍」が入っていました。よくアメリカ兵を見ると、「ヘイ、キャンディ!」とか「ヘイ、ガム!」とせがんでもらったものです。

 

いずれにしても、古き良き時代でした。この続きは「自己紹介(2−2)」でお話します。

 

 

2009年5月29日 12:07|その他

自己紹介(1)

少しエンディングノート的になりますが、はじめに私の自己紹介をさせて頂きます。

 

京都の伏見稲荷大社の近くに生まれ育って半世紀以上(年齢を知られたくないので)になります。

小学校は稲荷小学校というところで、1,000以上の伏見稲荷大社の神々がおられる稲荷山の麓(ふもと)にあります。

我々の時代は、同じ学年でもクラスが3つあり各クラスとも50人以上の児童数でした。ところが今は一学年全員でも20人ぐらいらしいです。

まさに「少子高齢化」を実感しています。

 

「マンパワー」という言葉がありますが、やはり「人の数」が経済の発展の大きな要素と思います。

そのためにも、国や都市の財政支出は、夫婦がもっともっとたくさん子供を産んでも安心して生活できることを最大の政策目標とし、各種の助成金や育児施設や働く環境整備に」革新的な施策を講じるべきと痛感しています。(言うのはやさしいですが…)

 

 

2009年5月27日 15:21|その他

はじめてのブログです。

5月というのに寒暖の差が激しい日が続いている上に、新型インフルエンザが猛威をふるっています。

読者の皆様、ご健康にご留意ください。

 

相続手続支援センター京都南の「杉田徳行」と申します。この平成21年の5月からHPを開設致しました。

 

つい最近まで「ブログ」と言う言葉を知っているぐらいでその意味を知りませんでしたが、事務所の若い人からその意味を聞きました。

 

その人が言うには、

(1)毎日続けること

(2)興味を引く写真を載せること

が流行るブログのコツとのことでした。

 

これは大変だ、続くかなとプレッシャーを感じている今日この頃です。

 

2009年5月15日 14:16|その他

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