私の今までの記憶の中で、世の中の景気に関する「○○ショック」が2つあります。
その一つは、昭和40年代後半の「オイルショック」と今回の「リーマンショック」です。
その共通点ですが、「ショックの直前は極めて好景気」でした。特に、「オイルショック」
の前年は、日本中のサラリーマンの賃金が20~30%ほど上昇したと記憶しています。
もう一つの共通点は、ショック後の景気は「なだらかな上昇カーブしか描けない」こと
です。あたかも、病み上がりのあとは往年の活力は出てこないのと似ています。
...35年ぐらい前の「オイルショック」についても、その後は往年の爆発的な成長
は無くなりました。
相違点は、「オイルショック」の時は1年で V字回復下のに比べ、今回の「リーマン
ショック」は回復に3年程度かかりそうだということです。
この回復力の差は、やはり「日本の少子化」が原因でないかと思っています。
...中国やインドやブラジルは既に景気が回復していることからしても察しがつき
ます。
「オイルショック」は、松下電器に入社して5年後に起こりました。今まで爆発的に
成長していたのが急にブレーキがかかった感じがしました。これは、一つの時代の
区切りだなとあとで気がついた次第です。
2009年11月14日 20:47|その他
これからしばらくは、松下電器での勤務の中で特に印象深い思い出を綴りたい
と思っています。
まず、「松下幸之助氏」についてのお話です。入社して間もない頃、我々社員が
幸之助氏の訓話を受ける機会ががありました。私が座っている真横を通って演台
に向かわれたのですが、その後ろ姿は「田舎のおじいさん」という印象でした。
しかし、演台にあがられ話をされるときの「顔」を拝見させて頂きますと、すごく
内向的で深く深く考えをめぐらしておられるような神経質な印象を受けました。その
ギャップが今でも忘れられません。
私が幸之助氏について「素晴らしい人」と思っているのは、単なる事業家を通り
こしたその「スケール」の大きさです。
例えば、「PHP運動」は終戦直後から考え動いておられたと記憶しています。
あの終戦の混乱の時期に数十年先をみこしておられた!!!!
更に、先を見越して新たに「松下政経塾」を興され、この塾の若い卒業生の
多数が、これからの日本を支えていく国会議員となっています。
人間の生き方として最高の方ではないでしょうか。肉体は死んでも、精神は
多くの人の魂の中で脈脈と活きているとは!!!!
松下幸之助氏が創業した会社で20年間も勤務できたことを感謝しています。
2009年11月 4日 20:34|その他
今回は会計周りの「資格試験」への挑戦について述べさせて頂きます。
松下内部だけでなく、世間にも通ずる資格に挑戦しようと思いました。
いろいろ調べたのですが、経理周りというと「税理士」と「会計士」が良さそうでした。
中小企業診断士の資格もあったのですが、松下電器の経理は「経営経理」と言われ
ていましたので、この資格は余り必要でないと考えました。
税理士と会計士のどちらをも目指そうかとずいぶん悩みました。
税理士は1科目に集中して何年も勉強して来た人が競う試験なので、私みたいに
猛烈に仕事のあるサラリーマンには不向きと思いました。
一方、会計士の方は確か7~8科目を一度に受験するので、少々ミスがあっても
他の科目でカバー出来るので受かりやすいのではと感じました。また、上場企業に
勤めているので仕事にも役立つのではと思いました。
それで、会計士試験の受験に取り組みました。受験予備校に土日の講習コース
に通いました。もちろん、会社での「事業計画策定」や「中間決算、本決算」等の
業務多忙の時は通えませんでした。
なお、この会計士受験勉強のことは、社内の人に言って無かったと思います。
今の時代なら堂々と言えたかも知れませんが、その当時はこういうことを言うのは
タブーでした。
逆に、誰にも負けないぐらい一生懸命に仕事に取り組んだと思います。それは、
教科書を覚える無味乾燥な受験勉強よりも、複雑な仕事を理解する方がズーと
楽しかったからです。
2009年11月 1日 19:13|その他
実務の無能力さから来る劣等感から立ち上がるため、気合いを入れて仕事に取り
組み始めました。
まず、ソロバン塾に通いました。小学生が使うような小さな机で股を広げながら
教わりました。
ソロバンに慣れたおかげで、今でも頭の中で結構暗算ができます。すばらしい
副産物です。
更に、残業とか余りうるさくなかった時代ですので、時間を気にせずトコトン仕事
に打ち込みました。昼の休憩時間も弁当を食べながら字を書いたり、ソロバンを
はじくことが頻繁にありました。
...こういうことを続けていくうちに、周りから「鉄人28号」というあだ名を付けられ
ました。(あまり、気にしていなかったですが...)
若い20代にこういう仕事の取り組みができたことに感謝しています。
...「鉄は熱いうちに打て」は真理と思います。
当時の松下電器の優秀な上司から言われた言葉ですが、仕事の取り組み方と
として、あるレベルまで集中して仕事の「量」をこなすと一挙に仕事の「質」(勘も
含む)がアップすると教わったことがあります。
私はこの言葉は名言と今でも思っています。おそらく、頭の中で潜在意識が
貯まってくると一挙に「ひらめき」として「口と行動」に出て来るのではないで
しょうか。
次回は、会計周りの資格試験への挑戦について述べさせて頂きます。
2009年10月24日 18:29|その他
しばらく横道にそれていましたが、本題に戻ります。
回路部品事業部の経理課に配属されて最初の経理業務は、金銭出納でした。
金銭出納を担当したての頃は、失敗の連続でした。例えば、
事前に少しばかり仕訳の勉強はしましたが、事業部独特の複雑な仕訳が良く
分かりません。2つほど年下の経験者からいろいろ教わりましたが、その人は
優秀で「素晴らしい能力」の持ち主と思いました。実際その頃、松下電器に入社
する人は高卒も大卒も優秀な人が多かったと思います。
しかし、自分は全くのよちよち歩きです。初めての痛烈な劣等感を感じました。
現金出納もその日の金庫残高と帳簿残高が合いません。夜の遅くまでの照合
でやっと合いました。それがしょっちゅうでした。50歳ぐらいの大奥の様な女性の
上司から「何でいっぺんであわへんのや!!」と叱られます。
普通の人は入社したら金銭出納をほぼ1年ぐらいで終了するのですが、私の場合
は2年近く金銭出納で鍛えられたと思います。
ところが世の中面白いもので、この木っ端微塵の劣等感が私の心の中に「火」
をつけました。今のままでは、世の中で「埋もれてしまう」という危機感と「がんばら
なあかん」という持って生まれた負けじ魂です。
...この続きは、次回でということで。
2009年10月21日 21:26|その他
今回は、電子部品業界が置かれている経営環境について私見を述べさせて
頂きます。
お客さんは主に電気機器メーカーで、常に値下げ要望があります。年に2回コスト
ダウンを要請されそれに比例して値下げを強制するメーカーもありました。そんなに
値下げばかりしていたら、最後はゼロ円になるのではと思うこともありました。
さらに、部品業界は「景気」の影響を受けやすい業界で不景気になると途端に
受注が大幅ダウンします。そうなると、素早く生産調整をしないと、不移動の在庫
の山ができあがります。
汎用品は概して「見込み生産」ですが、技術的には高度な部品は「受注生産」
になります。技術的に高度な部品は「開発力と生産技術力」が無いと受注の獲得が
できません。受注後は、コストダウンのための「大きな投資」を伴います。それも、
「値下げ」と「コストダウン」との時間競争です。値下げよりもコストダウンが早ければ
継続して黒字基調となりますが、遅ければ継続して赤字基調となります。
また、同業他社との受注競争も激烈です。固定費の小さい部品メーカーは、売値を
ドンドン下げて必死に受注対応します。また、ある一品に特化している部品メーカー
は、その製品については他の追随を許しません。
以上の様に、電子部品業界は「いじめられやすい」業界ですが、逆に踏まれても
踏まれても立ち上がるたくましい雑草の様な業界です。そこで生きている人たちも
目立たないが「我慢強くて芯の強い人」が大半です。この電子部品業界で鍛えられ
たことに、今感謝しています。
2009年10月17日 15:03|その他
私が入社した頃の職場環境を思い出せる範囲内で書いてみました。
昭和40年代の前半から半ばの間に、土曜出勤が無くなったそうです。松下電器は、
世間に先駆けて率先していち早く実施したそうです。私の入社の時は既に週休2日
制になっていました。
...人の話によりますと、土曜出勤は効率が悪かったそうです。昼の12:00になり
ますとそれで仕事が終了ですから。
また、職場にクーラーが設置されてそれほど期間が無かったようです。それまでは
夏の暑い日などは、屋根に登って「水」をかけて冷やし職場の温度を下げたそうです。
私の入社の時は、既にクーラーが設置されていました。
経理部門の計算は「算盤」(ソロバン)でした。電卓は全くありませんでした。電卓
が職場に置かれたのは、入社してから確か数年を経てからです。その初めての電卓
は、極めて高額でまた大きくて今のデスクトップパソコンの1.5倍ほどあったと思い
ます。それでも、我々経理マンはその便利さに大喜びでした。
今の立場で考えますと、大変な環境で仕事をしていたわけですが、人間って
柔軟性があってそれはそれで仕事をこなせたわけです。技術の日新月歩は素晴ら
しいことを身をもって経験しました。
2009年10月13日 17:09|その他
販売・製造実習を終えた後、私は電子部品の「回路部品事業部」の経理課に
配属されました。経理部門への配属は希望通りでした。
...経理部門を希望したのは下記の理由からです。
①私の性格は「営業」には向いていないと思っていました。
②入社前に市販の本で松下電器の概要を調べたとき「事業部制を
支える神経細胞としての松下経理」についての記事を読み、これは
面白いなと感じていました。
ところで、最初に辞令をもらったとき「カイロ」と聞きましたので、これはてっきり
お腹とかを暖める「カイロ」と思いこんでしまいました。ああ、あのカイロの商品を
作る事業部だなと想像しました。
ところがよく聞くと、電子部品の「抵抗器」とかを作る事業部だったのです。それ
までは、松下電器は完成商品の組み立て製造が中心と思いこんでいました。
...ご参考に説明致しますと、抵抗器1個は1円にも満たない部品ですが
蛍光灯とかあらゆる電器製品に使われています。
そのとき初めて、松下電器は「物作りの川上から川下までを創る総合電器
メーカー」であることを知った次第です。
2009年10月10日 17:30|その他
導入教育を終了した後、販売店実習と製造実習がありました。各々についてその
簡単な思い出を述べさせて頂きます。
販売店実習の狙いは、商品を売ることがどれぐらいパワーとコストと熱意が必要
なのかを若いうちから体で体得させることであったと思います。でも、未だ自分自身
が若かったのと時代がよく売れる時代だったので、余り体得できなかったと感じて
います。
それよりも、実習の終了間際にナショナルショップ店の社長から天井の掃除を
指示され、髪の毛からズボンまで真っ黒けになって頑張って綺麗に掃除できたこと
が一番印象に残っています。
製造実習は「クーラー事業部」でした。コンベアラインに載ってくるクーラーの外観
検査等を担当したと思います。メーカーは、「物作り」が経営の基本であり、QCD
(品質、コスト、納期)の管理をしっかりしておくことの重要性を表面的にも理解でき
ました。
...当時は、クーラーが世の中にドンドン普及し需要が急速に伸びた時代でした。
それよりも、印象に残ったことが一つあります。それは、当時の「事業部長の行動」
です。夕方、製造ラインが止まり、照明灯も消され、常夜灯だけの製造現場で事業
部長が一人だけ残られ、生産ラインや製造設備をじっくり観察されていたことです。
「事業部長は、えらいなー」とそのとき思いました。
この時から10年も経たないうちに、松下電器の社長が松下幸之助氏から山下俊
彦氏に交代されたとの新聞記事が載りました。世間一般では「山下飛び」とか言わ
れたものです。
その新社長の新聞の顔写真を見て、ビックリしました。なんと、その山下俊彦氏が、
製造実習時代のクーラー事業部の事業部長だったのです。
...大企業のトップになるような人は、山下俊彦氏の様な人だなと実感致しました。
2009年10月 8日 21:46|その他
昭和44年の4月から、松下電器産業(株)(現パナソニック)に入社しました。
両親は、松下電器で鍛えられるということで大喜びでした。
そのときの初任給は、確か2~3万円ぐらいでしたが、これでも貯金ができる時代
でした。
入社式は枚方の体育館で行われましたが、同期の大卒者は私の記憶では
800人ぐらいでした。その数の多さに最初から気後れしたものです。
入社式のあと、確か2週間ぐらいの「新入社員導入研修」が行われました。
愛情溢れた(?)鬼軍曹のような教育責任者の方が朝早くから我々新入社員に
いろいろ指導をされたものです。
その導入研修の講義で、今でも覚えているのは次の項目です。
①松下幸之助社長の理念である水道哲学と経営基本方針
②企業は社会の公器にならねばならない
③事業部制と経理制度による効率的な経営管理の推進
④適正利益をあげることによる税金等で社会に還元
私は、以前述べましたように、商売人の家に生まれたので「適正利益」はスーと
素直に理解できましたが、新入社員の中にはなかなか理解できずしばらくして去って
行った人がおりました。
2009年10月 5日 14:07|その他