長くプログの夏休みを頂きました。
横道にそれましたが本題に戻ります。
高校3年生の時は受験一色でした。あのときほど、或る一点に集中して物事に
取り組めたのはその後の人生ではありませんでした。今思い出しますと貴重な
経験でした。
その頃は夜の11:00~から確か「ヤングリクエスト」とかのラジオ番組があり
ました。それを聞きながら、「ながら勉強」をしました。
また、大学受験予備校の夏期講習で「生物」の講義がすばらしくよく理解でき
ました。また秋には「模擬試験」を受けに行きました。
その結果、どうにか現役で京都大学の経済学部に合格することが出来ました。
黙って見守ってくれた家族に感謝しています。
2009年8月23日 13:18|その他
今回は、前回の続きということで、現在の日本の状況とその対策(?)を
独断と偏見で述べさせて頂きます。
私は、「少子高齢化」に伴い平成13~14年以降から日本の経済の衰退が
始まりだしたと思います。
そして、昨年のリーマンショックで決定的なダメージを受けたのではないか
と感じています。
丁度、63年前の敗戦に近い状態ー経済的敗戦ーではないでしょうか?
...地方だけでなく都会においてもシャッター通りがドンドン増えている
のはその象徴ではないでしょうか?
我々は、「夢と希望」を何処に持つべきか思案に暮れて茫然としているの
はないでしょうか?
そこで、その解決すべき対策として、個人的にも企業的にも「華僑」では無く
「日僑」~日本をベースに海外との関わり合いを積極的に進めていく~を目指
した社会的な仕組みを構築したら良いのではと感じます。具体的には、次の
様な施策が考えられます。
1つは、「日本語、英語、中国語等3カ国語を自由に使いこなせる国際的な
日本人をドンドン育成」すべきと思います。これは、海外との人脈を増やす為
です。日本の発展には、東南アジアを中心として海外に活路を見いだすこと
が必要と思います。
...その為には、幼児の時から諸外国に慣れ親しむ社会的な風土の構築
が大切です。
2つは、島国から来る日本人特有の「内向き性格」を「外向き性格」に意識
的に改造する教育システムが必要と思います。例えば、小学校時代から
「ディベート(討論)教育」の教育を始めるなどです。
...英国では、既に行われています。
2009年8月 4日 12:40|その他
私が桃山高校に在学していたのは、今から40数年前の昭和30年代の
後半です。
確か新幹線が動き出し東京オリンピックが開催された頃です。これにあわ
せてカラーテレビが売り出され始めたので、電器屋さんの街頭テレビを必死
で見ていました。
...丁度今の中国と同様と思いますが少し違うところがあります。
それは、日本の場合政府の「所得倍増計画」に基づき、国民皆が
「中流階級」に向かったことです。
我々は、その中流階級になろうと「夢と希望」をもって一生懸命に努力しま
した。
この頃が終戦後日本が敗戦から立ち上がり前を見て「将来の夢と希望」に
向かって~それは単純にカー、カラーテレビ、クーラー、冷蔵庫、洗濯機等を
を自分の所有としたいということだったかも知れませんが~邁進して行き始め
るエポックの時だったと今実感しています。
2009年8月 1日 17:03|その他
公立高校に入学して感じたことは、「いろいろな考え方」を持っている先生
や高校生に出会ったことです。
高校を卒業したら、直ぐに北海道の牧場に就職して将来は大きな牧場主
になる夢を持っていた人もいました。
桃山高校はボートで有名でしたので、高校の3年間をボート部に所属し
青春をボートで謳歌した人もいました。
また、先生の中にも司法試験を目指し合格され転職された方もいました。
人間は自分に適合した「何か」を掴んだら、夢中になれる生き物と思います。
2009年7月26日 17:11|その他
それでは、高校時代を思い出して幾つか印象に残っている事をしばらく述べ
させて頂きます。
まず、今回は「制服」についてです。当時、男子は詰め襟付きの黒の学生服
に統一されていました。運動をした後など「蒸し風呂」状態になる欠点はありま
したが、それ以上に「形式が内面を規制する」というメリットがあったと思いま
す。分かりやすく言いますと、自分は未だ「学生」で学ぶのが本分というのを
気づかせてくれたと思います。
...現代の高校生はその辺がある意味で、希薄になっている感じがします。
私の勘違いかも知れませんが~
2009年7月22日 20:53|その他
夏休みは受験仲間と桃山高校の校舎で一緒に勉強した記憶があります。
自宅の伏見稲荷から桃山高校のある丹波橋まで下駄を履いて自転車にのり、
校舎まで地面に足をつけないで到着するのが日課でした。
校舎は丘の上にあり大変汗だくで厳しかったことを思い出します。
当時の桃山高校は、確かクーラーが無かったと思います。
廊下の窓を開けて風通しを良くした後、廊下に机を出して受験勉強をしました。
一点集中で専念し、大変楽しかったものです。
2009年7月21日 17:04|その他
受験仲間もでき、高校時代は「雑念無し」「一点集中」出来る良い環境に恵ま
れました。
親も黙って見守ってくれました。ただ、桃山高校入学当初に父から一言次の
様に言われたのが思い出されます。
...姉達は皆嫁入りする。お前は長男で男一人だから、浪人するぐらいなら
大学入学を止めて商売(金物の個人商店)を引き継ぐこと。」
この言葉で「火」がつきました。これは、「背水の陣で現役での大学入試に受
からんと!!!」大変なことになると。
...当時は、親のやっている商売を継いでその仕事を一生するなんて、考え
ただけでも「ゾー」とすることでした。
2009年7月19日 13:06|その他
入学当初は久しぶりの共学で戸惑いましたが、直ぐに慣れました。
高校時代は「国立大学に合格するという目標」を実現する為に頑張ると自分に
決めていましたので、勉学一筋に邁進しました。
中学時代と同様に確か木造の校舎だったと思います。その古びた壁に中間
試験とか期末試験とかの結果を成績順に張り出された記憶があります。
...今の公立高校では、こういうことはされていないのでは?
300万人近くの出生率の時代のなせる技かも。
2009年7月17日 17:27|その他
中学3年の時は確か旺文社の「公立高校入試問題集」に首っ丈で受験勉強
しました。誰も競争相手がない中で少し不安でしたが、どうにか公立高校に
合格することが出来ました。
その当時、、京都府の教育委員会は入学する高校を指定していました。
それまでの学区制からすると「伏見高校」(現在のラグビーで有名な伏見
工業高校)と思っていました。しかしふたを開けてみると、「桃山高校」に
入学しなさいとの連絡が入りました。
桃山高校は豊臣秀吉が建立した「伏見桃山城」や明治天皇のお墓の
ある「桃山御陵」の直ぐ側の大変環境の良い台地の上にありました。
昔は女子の師範学校だったそうですが、その後府立高校に変更された
そうです。
2009年7月12日 20:52|その他
中学校の3年生になった時、私はそのまま推薦で同志社香里高校に進学
するか、京都の公立高校を受験して国立大学を目指すかで少し悩みましたが
最終公立高校を受験することを決めました。
後から考えると自分の持って生まれた遺伝で、常に何かにチャレンジしたが
る性格だからと思われます。
もう一つは両親とも明治生まれで学歴が無く、子供に夢を託したのかも知れ
ません。
~勉強せよととやかく言われたことは一度もありませんでした。
~もっとも、受験の経験が無かったからかも知れません。
このプログの読者の方で10代の子供さんがおられたら~今の時代は難しい
かも知れませんが~子供を信頼して何も「勉強せよ」とか言わないで黙って
信頼しておいた方が子供さんが伸びると思います。ご参考下さい。
2009年7月 8日 09:27|その他