長らくお待たせいたしました。
「エンディングノートセミナー」が立て続けに2回ほどあり、その準備に大わらわでした。
今回の2つのセミナーでは、40歳位から80歳位までの120名程の出席者がありました。
将来の「自らの老後」「家族」について前向きに検討されている方々にご参加いただけたと思います。
日本では世界でも類を見ない「少子高齢化」と「核家族化」が進行してまいりますが、これにうまく対応してファミリーが末永く繁栄するためにも、いろいろ知識と知恵を磨くことが必要と思います。その一助になればよいと思い、「エンディングノート」のテーマで、今年1年かけてブログを続けていこうと思っています。
よろしくご一読下さい。
2010年2月16日 11:56|エンディングノート
2/6(土)・2/13(土)「エンディングノートの書き方」「遺言」「生命保険」をテーマにセミナーを開催致します。
自分に万一のことが起こった場合、家族が困らないように自らの意思や"生きてきた道"を伝えるためのエンディングノート。
「遺言には興味があるがどう書いていいかわからない」「どんな人が必要なの?」など、遺言の書き方のポイントや事例をご紹介。
身近な生命保険のセミナーでは、生命保険の基礎を知ることにより、節税や相続にもお役に立つことも!
今回、開催される2つのセミナーに参加してみませんか?(講師はいずれも公認会計士・税理士・行政書士であり、当センターの代表である杉田徳行です)
どちらも先着受付ですので、お申込はお早めに!
①平成22年2月6日(土)13:30~16:30開催(日本生命保険主催)
第一部 「遺言とは...?」
第二部 「生命保険の基礎と税について」
講 師 杉田 徳行
定 員 先着20名
参加料 無料(参加者にはエンディングノートを差し上げます)
会 場 日本生命京都南支社8F会議室
(京都市下京区西洞院通塩小路上る東塩小路町608-9 日本生命三哲ビル)
TEL(お申込) 075-341-7150(日本生命保険京都南支社)
②平成22年2月13日(土)13:30~16:30開催(京都リビング新聞社主催)
第一部 「エンディングノートの書き方セミナー」
第二部 「遺言とは・・・?」
講 師 杉田 徳行
定 員 先着90名
参加費 無料(参加者にはエンディングノートを差し上げます)
会 場 キャンパスプラザ京都 2階ホール
(京都市下京区西洞院通塩小路下る)
TEL(お申込) 075-212-4856
(京都リビング新聞社「エンディングノート書き方セミナー」係)
2010年1月25日 10:27|セミナー案内
前回までは、会計事務所開業までの私の軌跡を振り返って見ました。
開業後から現在までの活動につきましては、弊事務所HPの「ごあいさつ」を下記に
引用させて頂きます。
私たちの取り巻く社会的環境は著しくかつ、目覚ましく変化しています。
そういった中で、私どもは、「会計」を主体として「税務指導」を中心に行ってまいりました。
今日、この「会計税務」につきましては、「事業承継」「M&A」「自計化指導」「給与計算」
「経営計画の予算・実績対比と先行管理」へと進化させています。
さらに、社会的諸情勢により、経営者の方々の悩みも多様化し、私どもも、その解決
に対応すべく「業務内容」の品揃えを拡大・充実して参りました。
その結果、現在では、ほとんどの中小企業の経営者の方々の経営ニーズに対応で
きると確信しています。
特に、最近の不況に対処するため、「マーケッテングアドバイザー」として、「増販増客」
「顧客管理」のご支援を行っています。
更に、相続、事業承継対策としての「事業承継アドバイサー」を行うとともに平成21年
より「相続手続支援センター京都南」を開設致しました。
今後、会計・税務を基盤として、総合コンサルテング会社としてのノウハウを一段と
蓄積し経営者の皆様方に更にお役に立っていく所存です。
以上で、私どもの自己紹介は終了です。
次回からは、「エンデングノート」の書き方について、出来るだけ分かりやすく、また
具体的にプログを進めていきたく存じます。
又、時折税制改正他のトピックスを挿入しようと思っています。
今後とも宜しくお願いします。
2010年1月12日 10:46|
本日は、「松下電器を退職し会計事務所を独立開業」した経緯について述べさせて
頂きます。
丁度勤続20年目の時上司より、アメリカの電子部品会社の経理責任者としての
転勤の打診をされました。
家族と話し合い転勤を決意して上司へ報告しようとした矢先に、父が急病で入院する
ことになりました。
さて、長男としてどうするか?大変惑いましたが、最終的には松下電器を退職し、
親元で会計事務所を開業・独立することに決めました。
...「男は40歳にして惑わず」という格言がありますが、いろいろな人を見ますと
私と同じように「男は40歳にして惑う」というのが正しいのではないでしょうか。
平成元年の1月7日に「杉田公認会計士事務所」として看板を掲げました。
今でもしっかり覚えていますが、その開業した日が丁度21年前の1月7日の本日です。
年号が昭和から平成に切り替わった日でもあります。
私の父がズーと続けてきた「金物商」も、丁度この時期には全く売れなくなっていまし
た。それは、主婦の店ダイエーが近辺に出店し、お客がダイエーになだれ込んだから
です。
...現在、量販店が勢いをつけて出店しているため、個人の商店がドンドン廃業して
いるのと同じ現象です。
高校生の時、父の商売の後を継ぐのが大変イヤで受験勉強のバネになりましたが、
結果論的には正しいということになりました。
以上から、私の人生と世の中の流れを鳥瞰いたしますと、1つの事実として、「20年
毎に流れが大きく変わる」ことを実感しています。読者のご参考になれば幸いです。
2010年1月 6日 21:02|その他
今回は、以前に述べました「会計士試験へのチャレンジ」のその後の経過です。
その頃を思い出しますと、下記のような受験勉強をしたことが思い出されます。
会社の出勤日の時は、帰宅が深夜となっても、15分でもテキストを読んだり計算
問題を解いたりと必ず実行しました。不思議なもので、時間が無い分、逆に集中出来
たと思います。或いは、仕事のストレスを発散させていたかも知れません。
土曜等の出勤がある時を除いて、ほぼ土日は予備校に通い続けました。
しかし、本試験を受けると何年も不合格でした。
7~8年このサイクルで受験勉強を続けましたが、とうとう29歳になったときに、
「もう来年30歳になっても受からなかったら受験勉強を止めて、仕事だけに集中
しよう」と腹をくくりました。そう心に決めると気合いが入ってきまして、その夏の
本試験の前日から試験終了までの3日間は徹夜で明日の受験科目のレジメの
復習を致しました。
当時の会計士試験の受験場での環境は今と違って、クーラーがない、計算機が
ない時代でした。それで、半ズボンとランニングシャツで、ハンカチで汗を拭いながら
一心不乱に書きまくった、計算しまくったことを今でも覚えています。特に試験終了
間際の最後の一分間は、集中力が最高に高まったときなのか、すごく長く感じまし
た。試験官が答案を取りに来るのを知らずに声をかけられて初めて気がついた次第
でした。
試験問題につきましても、前日に復習した問題そっくりなのが簿記とか原価計算
で出題されました。神様のお恵みを頂いたのかも知れません。
会計士の2次試験は、この年に合格致しました。これは、後ろでバックアップして
くれた家内や家族のお陰です。
2次試験に合格後、3次試験の合格までに6年を費やしました。30代になって
会社の仕事に熱中した分、時間がかかりました。
3次の筆記試験の合格後、面接試験を受けるために東京に行きました。無事
面接を受けた後帰途の新幹線に乗りましたが、その車中で長かった受験
勉強の14年間が「走馬燈」のように思い出されました。
2010年1月 4日 19:59|その他
今回は、松下電器の経理マンとしての私の軌跡を振り返ってみたいと思います。
以前述べましたように、悪戦苦闘した金銭出納業務を皮切りに、20年間の勤務の
間に、財務担当・予算担当・主任・係長・課長と仕事の幅を広げることが出来ました。
この中で、一番楽しかったのが「予算担当」でした。
予算担当とは、工場長や開発部長や営業部長の経営参謀として、事業計画策定
・月次決算報告・決算検討会報告などを行う仕事です。
何故か、新規開発中の赤字の工場の予算担当が長かったものです。特に、ある
工場長との何年間かが鮮明に思い出されます。生産技術出身の工場長でしたが、
気性が激しく興奮すると灰皿が飛んできます。今思い出しますと、良い意味で全身
全霊を込めて新規事業の立ち上げに邁進されていたのだと理解出来ます。
松下電器が超大企業に成長したのは、責任者を中心に松下幸之助氏のいう「全員
経営」「全員商店主」を実践したからだと思い出されます。
私の松下電器で勤務したときの最終の事業場は、大変大きな事業部でした。
関係子会社として、国内3社、海外2社を支配していました。この事業部の経理
課長として、グループの経理社員約80名を対象に管理と指示を致しました。その
役割は、事業部長の補佐、ご意見番、参謀、特命事項の推進、関係部門への
指示等経営経理の実践そのものでした。
全く経理知識の無かった私が、20年間の間で上記のような仕事を担当できた
のも、松下幸之助氏の基本理念である「物を作る前に人を作る」のお陰であり、
又先輩の方々の薫陶があったからだと思います。感謝そのものです。
2009年12月30日 11:51|その他
今回は、「正が誤りとなり、誤りが正となる時代」をテーマにお話しします。
松下電器に入社後、ズーと「製品別事業部制度」のもと製品毎の損益と資金を把握して
迅速なアクションをとることが経営の基本方針でした。
しかし、約10年前、当時の中村社長が事業部制を打破して、全社的な資源の配分を
見直すと発表されました。
その理由は、事業部制経営の行きつくところ、エゴが出てきてしまい、同一製品を
複数の事業部が開発し、全体としては重複投資と資源の分散となってしまうからでした。
更に、単一製品メーカーに対する競争力が落ちてしまうことも理由の1つであると思わ
れます。
私も、会計事務所を開設後このようなことを何度も経験いたしました。今は正しいが
時間の経過とともに、誤りとなる。今は誤りだが、時間が経てば正となる。
しかも、その変わり身が最近になって早くなってきていると思います。私の感じでは、
5年サイクルから、2年サイクルへと短くなってきています。
従いまして、2~5年先の変化を見て、いつ方向が変わるのかを常に探っておく
必要があります。
更に、こういう時代は「過去の成功経験」が余り役立たないと思います。常に世の中
の動きをみて、新規創業の心意気で経営をチェンジさせる強力なリーダーシップが求め
られています。
まことに、環境が厳しくなってきているのを実感する今日このごろです。
2009年12月26日 16:26|その他
今回は、松下電器の経理社員教育と経理塾のお話をいたします。
松下電器には、「経理社員」という登録制度があります。その当時の経理社員は2千人以上だったと記憶しています。
経理社員を束ね、経理制度を創設し、その運用を高めたのは、元副社長の「高橋荒太郎氏」でした。松下幸之助氏の右腕で懐刀だった人です。
松下電器の事業部制を支える神経制度としての経理制度は、ある意味で徹底したものでした。経理社員は本社登録とされ、さらに事業部長は、お目付役としての経理責任者をすげ替えようとしても人事権はありませんでした。見事な内部牽制制度です。
今、国際的に内部統制を強化しようとする動きがありますが、参考になるのではないでしょうか。
経理社員を育成するため、実務経験度に合わせて育成プログラムが準備されていましたので、それに乗っかっていろいろな研修とか討議とかを行ったものです。
「経理塾」は、松下政経塾を参考にして発足した経理社員研修の1つです。
どうしても経理マンは数字だけで物事を見がちで視野が狭くなりがちです。そこで、経理塾の塾生となり、日本全国の気に入ったところを訪問して物の見方を変えようという趣旨でした。私も、第一期生で楽しませてもらいました。例えば、大分県を訪問し、「村おこし運動」について説明を聞いたあと、平松知事と記念写真を撮るなどと思い出はたくさんあります。
2009年12月21日 13:24|その他
今回は、「経営企画」についてのお話です。
それまで経理一筋で仕事をこなしてきましたが、30代の半ばに「経営企画室」に移ることになりました。
経理の道一本槍は良い面もあるのですが、どうしても偏った考え方になりがちです。その辺の事も考えて上司が配慮してくれたのかも知れません。
それまでは、部下管理をしながら毎日計算機とにらめっこでしたが、経営企画室に移ると何もすることがありません。時間の過ごし方が分からず、ぎこちない動きになったものです。
周りの人は、トップから指示のある「経営戦略」の策定ですが、今までの職場と比較すると、のんびりしたものです。しかし、そばで話を聞くと大変頭の良い人ばかりというのが分かります。
私の担当は、「内部監査」を実施したあとトップに報告することでした。人に嫌われる仕事ですが前向きに考えて、今まで経験していない事業場をあっちこっち回ってやろうと思いました。
関西を中心に、北は北海道から南は広島まで内部監査を積極的に行いました。
また、海外子会社のあるマレーシアやシンガポールも訪れました。
内部監査をして良かったことは、経営の細部まで理解できたのと「内部監査報告書」をまとめるため論理的な文章力がついたことだと思います。
反面、「自分にも出来ないことを指摘」しますので、監査された方が良い気持ちがしないことです。
3年ほど「内部監査」を担当しましたが、これ以上すると人間がおかしくなると思い、上司に頼んで「事業場」に戻してもらいました。
2009年12月 7日 11:07|その他
今回は、「純血主義」のメリットどデメリットについて述べたいと思います。
松下電器に勤務していたときは、「松下の経営基本方針」に基づき、全員の経営に対する考え方は「筋の通った一本」でした。
全員が同じベクトルで仕事できる良さを身にしみて感じました。
...入社した時から全員が刷り込みされているわけですから。
しかし、その問題点もあります。松下電器に途中入社してきた優秀な社員が、入社後、ドンドン成長される人が多いのです。
例えば、以前にも述べました「山下俊彦社長」も途中入社の方です。
これは、途中入社してきた社員は、中小零細企業で資金に悩みながら悪戦苦闘してきた強者が多かったからだと思います。
超一流企業の純血主義で育った社員は、どうも何かひ弱で欠けているところがあるようです。
それで、松下電器として途中入社の採用をしていたと思います。
私なりの結論ですが、組織というのはいろいろな経験と考え方の違った人がバランス良く混ざった方が却って強いのではと思っています。
2009年11月30日 10:40|その他